ヒトラーと正義

そういえばおとといピアノの会に入会してきました。弾かずに帰ってきたけど。
で、久々にピアノに触ったのだけど、「パリは燃えているか」ってやっぱ名曲だよなあ。大して弾けないのがくやしい。

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この曲を初めて聴いたのは高2の夏ぐらいだったかな。世界史の授業でNスペ「映像の世紀」のDVDを見たとき。全てが崩れ落ちる絶望感、その中にともる確かな意志。そしてそれらを傍観しつつ、ただただ進んでゆく歴史。いや、人間が進めていく歴史。映像に、音楽に、引き込まれた。

…こないだ買った「ヒトラー最期の12日間」も読み終わったことだし、いい感じに重くなったので、思ったことをちょっと書いてみる。読後、ヒトラーに対する印象がiπ/2ラジアンぐらい変わった(なんだそりゃ)。ふざけてはみたものの以下かなーり重め。下手をすると危険思想に分類される話も含みます。その上長い。興味なければスルー推奨。

「正義」とは、何か。

映像の世紀を見て、正直僕はヒトラーに、こう言うとものすごく語弊があるんですが、なんと言いますか、同情、というかある種憐れみに近い感情を覚えたんですよ。先に言っときますがヒトラーを擁護する気は全くないですよ。で、とりあえずヒトラーって能力的には、少なくても一部の面では相当すごい人じゃないですか。天性の演説力と、徹底した大衆蔑視から来る国民扇動の巧みさ。周囲を魅了する力。で、そんな彼が凄まじい情熱に突き動かされて国家全体を巻き込んで、ほとんど全世界を敵とみなして戦う。
当時映像の世紀を見た僕は、その情熱を第一次大戦敗戦による屈辱やコンプレックス、そして絶望に発するものだと解釈したんです。映像中に出てきた、第一次世界大戦敗戦直後のヒトラーの言葉、「全ては無駄だった。あらゆる犠牲も、あらゆる労苦も無駄だった。果てしなくつづいた飢えも渇きも無駄だった。」が当時の僕にはかなり印象的でした。

ドイツの人々はいたく疲れていた。経済的には多額の賠償金でいたく困窮し、さらにそこに世界恐慌も襲いかかった。精神的には、ドイツ帝国の成立が宣言されたその地ヴェルサイユにおいて、戦勝国からの報復的、屈辱的な条約を結ばされ、民族的な自尊心を砕かれていた。

そこに現れたのがヒトラーだった。巧みな演説で民族的な自尊心を鼓舞し、アウトバーン建設により失業者問題をも一気に解決した。国民一人一人が車を持てるようにとフォルクスワーゲンを作らせようともした。労働者の保護の仕組みや動物愛護法なんかも整備した。
敗戦の絶望の後にこれだ。当時の人にはさぞ素晴らしい政治家に映ったことだろう。

そしてホロコーストは起きた。

これは明らかに悪だ。現在の視点から見れば。

ところが当時そこでは、人々の目にそれは必ずしも悪とは映らなかった。これは何故か。

ある立場から見れば…理解できないこともない。「ドイツ人の繁栄」を至上目的とする立場から見れば、これは必ずしも悪ではない。ヒトラーの、そしてナチの正義はこれだった。


勝てば官軍。

仮にドイツが第二次大戦に勝利していたとして、価値観ははたして現在のそれと同じだったろうか。なぜ、「人は人種により差別さるべからず」という価値観が今この世界にあるのだろう。それはドイツが負けたからだ。なぜ負けたか。ドイツにあった価値観は、明らかにドイツ人にしか受け入れるものでなかったからだ。要するに支持基盤が相対的に小さかったからにすぎない(薄その小ささもそれ自身の価値観の内容のせいではあるけれども)。

互いに相容れない価値観同士がぶつかり合うとき、どちらか一方の支持者の方がずっと多いとする。そのとき、その一方の支持者の数の暴力によって、他方の支持者は滅ぼされる。そしてこのとき、価値観も一つは生き残り、もう一つは滅びる。
かくしてドイツの価値観は敗れた。(まあこんな人を選ぶ価値観なんてどうせもともと長くは持たなかったろうが。)

人間心理に適合しやすい価値観がそうでない価値観を滅ぼす。ダーウィンの進化論で言う適者生存、それと全く同じ原理がここに働く。

だから今現在において、「人は人種により差別さるべからず」は「正義」だ。そうでない価値観は数の暴力で滅ぼされたからだ。正義は時に従って移りゆく。ヒトラーは最後、婚姻を結んだ直後の妻とともに自殺した。ヒトラーは当時の正義に突き動かされて生き、しかし最後にはそれが実現しえなくなってしまったのを見てとり、死を選んだのだろうか。


正義とは何か。僕は、それは「仲間」とそうでないものの境界線だと思う。その内側の者を繁栄させるために、その外部を犠牲にする、その境界線。ナチ支配下のドイツにおいて、ドイツの境界線にはドイツ人だけが入っていた。今の世界では境界線内には人類全体が入っている。世界は大体においてこの境界を広げる方向に推移してきた。

ところで、サルは「境界」の中に入れるべきだろうか。わりと多くの人は境界の外に出すのではないかと思う。
ところが例えばニュージーランドでは類人猿に人権がある。だから、ニュージーランドではサルは動物実験の対象にすることができない。アメリカではそれが可能なのにもかかわらず。
またたとえばサルを境界の外に出すとしよう。ではサルとヒトのハーフはどちらに入れるべきだろうか。これはあながちただの思考実験でもなく、どこの大学だか忘れたが、生物学系の卒業研究のため、自分と猿の間の子供を作りたいと教授に談判した学生も実際にいたそうだ。

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ああ面倒くさい。考えても終わりがないのがわかりきっている。
え?僕?僕は対人関係の中に起きるごたごたが好きではなく、それでいて意外と寂しがり屋だったりするので、日々あんまり迷惑をまき散らさずに周りの人と楽しく付き合えればそれでいいです。正直ケースバイケースで考えていくしかないと思う。
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…というのが、上の文が本を読む前に考えていたこと。
しかし、この本を読むと、どうやらヒトラーはそういう利他的(利ドイツ民族的)な動機で自らの国家を結果的に滅ぼしたのではなかったようだ。

残されている資料によれば、ヒトラーは極端に利己的な性格をしており、そのうえ強い破壊願望を持っていた。仮に交渉が成立する状況で、しかもその方がドイツにとって得な選択である場合にあっても、彼は攻撃により、「敵」を徹底的に滅ぼす方を選んだようだ。
彼はドイツ民族のプライドを守ろうとしたのではない。ドイツ民族の壊れかけたプライドを、それが自らのバランスを取り戻そうとする意志を、彼はむしろ自分の破壊願望を満たすことに利用したのだ。少なくともこの本からはそう読み取れる。

…まあ、僕にとってそれがどういうことだったかといえば、もともと救えなかった話がさらに救えなくなった、というだけのことにすぎないのだけど。はい終わり。